和気閑谷大学「現場作業服史」集中講義【第3回/最終回】

 

第3回講義オープニングのアイキャッチイラスト


はいはいはいはい、スマホはマナーモードで鞄に入れてくださーい。講義中にTwitter、じゃなかったX見ないと死ぬの? というかさあ、君らXの書き込みもう少しわたしを思いやりなさいよ! わたしもエゴサーチってもちろんするんだよ。「現場作業服史つまんね」は百歩譲ってまあいいよ、努力するよ。でもさあ、「現場作業服史のおっさん超ハゲワロタww」はやめてよ。人の体の特徴を笑いのタネにすんなよもう! むかついたんで一つ重大な予言をしておきます。君らも、いつかは、ハ・ゲ・る! OK?


ということで、前回鳶ニッカポッカの誕生までを見ていきました。
今日はメインストリーム、本流の「作業服」についてみていきます。


▼戦後復興と建設業

1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏しました。ポツダム宣言の中にはわが国が負うことになった義務がいくつか定められていました。「無条件降伏を受け入れること」「連合国軍による占領を受け入れること」。このへんはまあ分かるでしょう。で、その中の一つに「植民地・占領地の放棄」というものがありました。戦時中、海外に生活の拠点を持っていた日本人は軍人と一般市民合わせて600万人いたと数えられていて、この人たちが一斉に祖国である日本に帰還することになります。いわゆる「引き揚げ」ですね。

海外から日本へ引き揚げてきた人は、もちろん政府からのわずかばかりの給付金をもらったわけですが、それじゃ全然足りてなくて、とにもかくにも仕事を探して食っていかないとどうしようもない。身寄りのある人は実家に戻って農業などの家業に従事すればいいわけですけれど、身寄りのない人も引き揚げ者のなかには相当数いました。そんな人たちが従事したのが建設業の日雇いであったり、北海道の開拓への参加なのです。

ということで、戦後間もない頃、建設業は国土の復興の他、「進駐軍工事」と呼ばれた多くの兵舎や将校宿舎を全国各地に作る仕事を行いました。じゃあこのとき作業員は何を着ていたかといえば、時代は戦後まもなくの時期。需要はたくさんあるのに食料も衣類もエネルギーもなにもかも供給がなく、いわゆる「闇市」が横行していたゴタゴタの時代です。それゆえこの時期の復興工事の写真を見てみると、みんな着の身着のまま、それこそ丈の短いズボンと半袖シャツで作業に当たる人も多くみられます。大災害や戦争により焼け野原になった場所がもう一度復興していくことを「スクラップ・アンド・ビルド」なんて言ったりもしますが、この時期は他の消費財の歴史とともに作業服の歴史もいったんスクラップされちゃったわけですよね。完全に無です。

戦後復興の様子を描いたイラスト。労働者は着の身着のまま。

で、工事に従事する人の人数は引き揚げを経て恐ろしい数で増えていってる。でもまともな作業服なんてない。そうなるとワークウェアに対する需要が日に日に高まっていた、というのが分かると思います。しかし「作業員が着るための作業服、今なら作れば作るほど売れるから、オレたちで作ろうぜ!」とはできない事情が当時の日本にはありました。それが1947年制定の「臨時物資需給調整法」です。この法律によって、日本では統制経済が実施され、今では当たり前になっている自由なビジネスがしばらくの間禁じられていたのです。それでも、この法律も1949年に鉄鋼や繊維産業で一部廃止されて、それ以来わが国は自由経済の道を歩んでいるのは皆さんご存じのとおりです。

そんな時代を経ての1950年。これが作業服の歴史にとってのターニングポイントです。


▼1950年、自重堂の作業服製造進出

自重堂本社屋(著者撮影)

自重堂本社屋(著者撮影)


「じちょうどう」。広島県福山市に本社を置く、作業服の世界では知らない人はいないレベルの超有名&老舗企業です。1924年の創業以来制服などに使われる布地を作っていた企業ではあるんですが、経済統制の解除を経た1950年に作業服の縫製や販売を開始しました。だからこそ、この年が「作業服らしい作業服」の元年なんですね。加えて朝鮮戦争をきっかけとした好景気もあって需要が沸騰寸前だったわけなので、売り上げも快調だったものと推測されます。

売れに売れた作業服。当時採用されたデザインはきっと来たるべき未来を先取りした先進的なものだったろう、とみなさん思うかもしれません。このときの作業服は「トモエサクラ」というブランド名で実は現在でも販売されているラインになりますが、実は戦時中の国民服とシルエットとしてはあまり変わらないように見えます。ただし国民服とは「耐久性」の面で決定的に異なっていたのがポイントです。国民服は戦況悪化とともに粗悪な素材に変わっていったことを第1回目の講義でお話ししましたが、自重堂の作業服は綿の丈夫な素材が生地になっていました。考えてみれば、創業以来同社が作っていたのは学生服などに使われていた「小倉地(こくらじ)」と呼ばれる丈夫な織物だったわけで、同社には丈夫な製品を作るだけの土台がすでにあったのです。

さて、自重堂は早くもその5年後の1955年には学生服の製造販売から撤退して作業服の製造販売とカジュアル向けスラックスをメインとする営業方針を取るようになります。これについては岡山県の倉敷市児島の繊維産業界隈、具体的には児島の学生服製造会社と競合するのはマズそう、という判断が働いたことが原因の一つとされます。皆さんも小中高で着た制服のブランドって思い出せますか? 例えば官公学生服、トンボ学生服、富士ヨット学生服、これらは全部児島を拠点にしているメーカーさんで、現在でも全国的にも高いシェアを誇っています。

そういった経緯もあって、瀬戸内の繊維産業というのは、福山とかの備後地域が作業服とデニム生地、児島が学生服とジーンズという感じにすみわけするようになって共存共栄してきた、ということになります。ええっと、児島のジーンズブランドってみなさん知ってますよね? ビッグジョンベティスミスボブソン、近年では桃太郎ジーンズが人気ですよね。あ、エドウィンはもともと「江戸勝商店」という名前だったように東京発のジーンズブランドです、ってのはもっともらしい真っ赤なウソです。一応、東京発のブランドであることだけは事実で、エドウィンってのは「DENIM」の5文字をひっくり返したネーミングってのが正しいです。

一方で、「福山のデニム」ってあんまり皆さんイメージないと思うんですが、実は岡山県井原市とかを含めたこの地域って、たとえば福山のカイハラなどその筋では超有名なメーカーがあって、デニムの「生地」の国内生産シェアが8割に達する地域なんですよね。で、それを縫製するのが児島のブランド。1本のジーンズができるまでにはそういう構図があるということを酒の肴というか未成年の方もいるのでハンバーガーのピクルス程度にでもちらっと覚えておいてくださいね。

えっと、いろいろ脱線しちゃったんだけど作業服の話に戻りますね。


▼クラシカル作業服の素材進化

1950年から1970年代にかけての作業服。この講義では仮に「クラシカル作業服」と呼ぶことにします。で、このクラシカル作業服のシルエットは国民服がベースだったということはさっき話しましたね。デザインの基本線はそれこそ現代に至るまでずっと変わっていないのですが、実は細部がどんどん進化していきます。

まずはもっとも大きい進化である「素材」についてから行きましょう。

1950年代以来、作業服の素材は綿100%でした。綿のメリットって何かって考えたら、「丈夫で火に強い」ってのがあります。ただしその一方で「洗濯で縮みやすく乾きにくい」であるとか「シワになりやすい」ってデメリットがあります。そんななか1950年代に開発された化学繊維「ポリエステル」が、60年代になって学生服やワイシャツなどの商品に普及した後、作業服の世界にも取り入れられるようになりました。このとき導入されたのが「T/C素材」というポリエステル65%、綿35%という混紡の素材だったんですね。ちなみに「T/C」のTは「テトロン」というポリエステル繊維の商品名、Cは「コットン」の略です。で、さっきの65対35という混紡比率が「縮みにくくて乾きやすくてシワにもならず、なおかつ耐久性がある」繊維の黄金比として見いだされていたわけですね。これによって洗濯や乾燥の負担が軽減され、作業服の扱いやすさは大きく改善されました。

そしてこの「T/C素材化」が作業服にもたらした影響というのがとても大きかったのです。


▼クラシカル作業服の「色」、そして記号的意味の変化

初期のクラシカル作業服ってどんな色だったかと言えば、「汚れが目立たない」ということが求められたわけで、そうなると純白の作業服ってのは全然ダメダメなわけですよね。当時普及していたのはネイビーやグレー、あとは国民服そのまんまのカーキといった具合です。

初期のクラシカル作業服

1970年代になると先ほどお話ししたT/C素材の作業服が一気に普及していきます。T/C素材はユーザーにとっては洗濯しても縮みにくいというメリットがあったのは先ほど触れましたが、メーカーにとっては「染めやすい」「洗濯しても色落ちしにくい」というメリットがあります。そう、これにより作業服はカラーバリエーションを一気に増やすことが可能になりました。加えて言えば、企業の生産体制も整備され量産化が可能になったことから、価格もどんどん下がり、企業が従業員へ一括支給しやすいものになっていきます。

このことが現場にもたらす変革が見逃せないのです。企業が自社の従業員に「制服」として作業服を支給できるようになる、ということが何を意味するか。それは「作業服」がもつ記号的な意味合いが変化するということです。要するに、こういうことです。

*「作業服」を個人で買った時代:作業を行うチームへの接続
*「作業服」が「制服」として支給される時代:所属する企業への接続


「作業服」に付与される帰属意識の記号の単位が「チーム」から「企業」へはっきり大きくなるのがこの時代です。日本の高度経済成長が終わったとされるのが第1次オイルショックがあった1973年で、そこからわが国は安定成長の時代へと入っていきますが、その経済の流れに沿って、建設業の労働の主体が「個人の集まりである小さな共同体」から、より大きな存在である「企業」へ本格的に移行していく。そういう風に捉えることもできると思います。

この流れは1980年代に入ると一気に加速します。このころの日本は「CI」すなわち「コーポレート・アイデンティティ」という概念が企業の間に広まってブームになりました。このCI、日本語では「企業イメージ統合戦略」などと訳されますが、わかりやすく言うならば、人目に付くところのデザイン、たとえば企業のロゴだとか職員の制服の見た目をキレイにして企業イメージを向上させよう!というものになります。で、作業服ももちろん例外ではありません。この時期はCIの一環で採用された「コーポレートカラー」の色に作業服の色を揃えることが多くなりました。先に説明した素材のT/C化によって、買い手となる企業はより自由な色を選択することができるようになったというのが背景にあるわけですね。

また1990年代のバブル景気の時代は環境への意識が一気に広まった時期でもあります。そうなると目に優しく、なんだか環境問題への意識も高そうな「アースグリーン」という薄い緑色の作業服が爆発的に普及するようになりました。

戦後はこんな感じで「作業服」が企業の声を代弁する存在に変貌し、帰属意識という作業服の持つ記号的性格もその性質を変えていったわけですね。ただし、まだ一つだけ「作業服」が長らく保持し続けてきた記号的意味が、この時代になっても残っていました。それは何か?


「厳しい労働に耐えることを美徳とする価値観」、言い換えれば「マッチョイズム」。
これです。
この最後まで残っていた記号的意味が、21世紀になって崩壊していく。
その過程こそが本講義、現場作業服史のラストです。


▼「空調服」という革命

日本における労働は長らく「耐える」のが美徳とされました。これの起源は勤勉や節制を説いた江戸時代の朱子学の教えにも求められるものですが、その傾向が強まったのが明治時代以降の富国強兵の政策による工場勤務や徴兵制であったのは間違いないところでしょう。続く太平洋戦争の間はずっと国民は耐えることを強いられてきました。戦後の復興から現代にかけて、いろんな産業において労働者のマインドは「耐える」ことから「快適さ」を求める方向へシフトしてきたわけですが、こと建設業はそうは言ってられなかった。なにせ、言ってみれば屋外での力仕事。

「カントク、シンドいっす」→「うるせえ、休憩時間まで頑張れ!」
「カントク、寒いっす」→「うるせえ、防寒着着て頑張れ!」
「カントク、暑くてマジ死にそうっす」→「うるせえ、とにかく頑張れ!」

理不尽なように見えても、でもそれが真実だった時代です。20世紀に建設されたインフラとか建物とかは、多かれ少なかれ、こんな現場労働者の汗とちょっとの涙でできていたわけですね。現場労働者にとってはひたすら耐えるしかない、我慢するしかない時代です。

そんななかで、作業服の歴史に新たな1ページが加わります。2004年、「空調服」の誕生。開発したのは元ソニーの技術者だった市ヶ谷弘司(いちがや・ひろし)さんです。

空調服はどういうものか。見たことない人のために説明しておくと、背中に何箇所か小さいファンを付けた服のことで、ファンの部分から風を服の中に送り込むことで身体の汗を蒸発させ、気化熱の働きにより温度を下げる、というものです。簡単に言えば扇風機付きの服ってことですね。発売当初は個人向け販売が多くなおかつ不良品も相当数あったのですが、バッテリーを改良し長時間運転が可能になると法人向けの販売数が激増し、現場に一気に浸透していきます。

空調服の現場への浸透は、作業服だけでなく現場での労働感を一変させるインパクトをもたらしたと言えます。「厳しい労働を耐える建設業」という記号が完全に相対化され、代わりに建設業にも「快適さ」という記号が現場に導入されることで状況を一変させたわけですから。「耐える労働」から「倒れない労働」「快適な労働」へのパラダイムシフトは、折しも毎年のように猛暑が報じられるような気候変動が建設業の労働環境を明らかに悪化させる要因であったことからも、必然だったと言えます。

なお、夏場の労働者の体温低下をもたらす服としては、空調服のフォロワーとしてその後「水冷服」や「ペルチェベスト」が発売され、一方で冬の寒さをしのぐ服としては電熱線を用いた「ヒートベスト」などの商品が現在発売されています。一度「快適」の味を覚えた人間は、より快適であることを求め続けるのですよね。

またこの時代以降、いろいろな産業で「安全・安心」「持続可能性」「環境負荷低減」といったことが重視されるようになりました。建設業もまたこれらの問題にキャッチアップする産業でなければならない、というのは言うまでもありません。それをどう不特定多数の人に示すかの答えとして、作業服が果たした役割というのは小さくありません。現在各社から発売されている作業服の素材となっているポリエステル素材は再生ペットボトルが積極的に用いられていますが、こういった例も、「建設業=人にやさしい産業」であることを作業服によって可視化するものと言っていいでしょう。


▼BURTLEの隆盛と記号的意味の再生産

現在、作業服の分野でトップシェアを誇るのはやはり福山市に本社を構えるBURTLE(バートル)です。このメーカーの作業服、最近は現場で見かけることが多くなりました。何よりデザインがかっこいいんですよね。クラシカル作業服と比較するとミリタリー感・ストリート感が増している。同社のデジタルカタログなんかを見ているとそりゃ今の若者はこういうの好きだよなー、というのがそこかしこから感じられるんですよね。


この事実から「今は作業服も現代風にカッコよくなった」で済ませたいところなんですが、こういった差別化の背景には、建設業が抱えるいろいろな問題があることを見逃してはいけません。最大の要因は建設業の従事者の問題です。

建設業の抱える最大の問題は「就業者の高齢化」です。ピーク時の1997年には685万人いた就業者数は年々減少傾向にあり、2024年には477万人と200万人以上減少しました(参考リンク→一社)日本建設業連合会HP。従業員が高齢になって退職する一方で、若い世代が入ってこない。そうなると建設会社はさっき言った「CI」を考えざるを得ないわけですね。つまりは「若者に受ける制服にして就業者を増やせないか」という試み。これって中小の会社が毎年の予算、つまり従業員の制服代として確保しているお金の範囲内でできる採用戦略なんですよね。ホームページ一つ作るにも業者に頼めばお金が必要で、自社でできればいいですけどそんな会社はごく少数でしょう。

若者受けする作業服、じゃなくて「若者受けする服」として考えてみれば、それってどんな記号的意味があるかはみなさんが日々感じていることと大差ないと思います。「流行の先端にいる」だとか「SNS映えする」とか、単に「かっこいい」でもいいです。「かっこいい服」「かっこいい労働」。これって一昔前の作業服にはなかった意味です。そのこと自体は、建設業が今後も仕事を継続していくためには、必ず必要になってくる視点と思います。そもそも建設業って「地図に残る仕事」って言われます。建物や道路は古くなって取り壊され、また新たなものが生み出される。建設業という仕事が消失することはありません。だからこそ今後も、作業服や建設業の労働は、記号的な意味の変化を伴いながら続いていく。そのようにわたしは思います。





ということで最終回がむちゃくちゃ長くなってしまったんだけど、本講義、これで終わりです。テストの前にまずは今回の講義の参考文献をプリント(PDFリンク→こちらで配っておきますので、興味のある方は読んでみてくださいね。

じゃあテスト。制限時間は5分! 終わった人から退席してかまいません。
問題はこれ!(解きたいという奇特な方向けPDFリンク→こちら

「現場作業服論」最終テスト(制限時間5分)
じゃあなお前ら! また来世!!!


↓ なんと「補講」の記事がアップされております。こちらからどうぞ!

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